アブサン研究室 -La Vie en Wormwood-

アブサン愛飲家が、アブサンの魅力を語るブログです。アブサンが飲めるバーで実際に飲んだ感想やアブサンが印象的な映画などについて掲載します。

【アブサン×文学】人間失格 太宰治

はい、きましたきました。
名作中の名作。
夏目漱石の「こころ」と歴代総発行部数一位二位を競い、今も多くのファンを魅了し続けている太宰治の作品、『人間失格』の登場。
 
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彼自身もアブサンを愛飲しており、人間失格にもアブサンは登場しております。アブサンそのものではなく、比喩的に、ではありますが。
今回はその比喩に隠された主人公である葉蔵の心境やアブサンの描かれ方について私なりに考察していこう。
 
 
同じく太宰の著書である、随想『酒ぎらい』のなかではこう書かれている。
 酒を呑むと、気持ちを、ごまかすことができて、でたらめ言っても、そんなに内心、反省しなくなって、とても助かる
 
素行の自分の振る舞いが、どうも愚かで阿呆なのではないかというやりきれない自分に疲れ、自分の平静を保つために酒を常飲していたのだろう。
 
あまりお酒に良い印象はない感じがする。この登場人物とお酒は決して良い関係性ではないような気がする。陰鬱なものを隠すアイテムではあるけれども、、、。
 
「酒ぎらい」は短編なのでサクッと読めちゃいます。普段あまり本を読まない方でも、酒好き酒嫌い問わず何か主人公の行動や感情に頷いてしまうところがあるはず。
こちらも是非読んでみてほしい。
 
▼青空文庫▼
 
 
さて、人間失格ではどの様な描かれ方がされているのか。。
 
『人間失格』という作品自体、単純なものではなく、主人公の葉蔵の心境についてはもちろん、太宰の生い立ちや、作風、そしてアブサンそのものの当時の位置づけ、時代背景についてあらゆる角度でゆっくりと考えを巡らせる必要があるので、非常に難解。。。
 
私もまだ読み込めていないところや考えが浅いところがあるかと思うが、個人の考えとして読んでいただければ嬉しい。
そして、「ここでの葉蔵の心境はこれだ」など皆様の考えをぜひお聞かせいただきたい。
 
『人間失格』のあらすじや登場人物についての説明は省略する。
まだ読んでいない方は是非読んでほしい。
 
▼青空文庫▼(この作品に関しては紙で楽しんでもらいたいのが本音。本だけに。)

www.aozora.gr.jp

 
 
それではまず、アブサンが出てくる部分を抜粋してみてみよう。
 
このような時、自分の脳裡におのずから浮かびあがって来るものは、あの中学時代に画いた竹一の所謂「お化け」の、数枚の自画像でした。失われた傑作。それは、たびたび引越しの間に、失われてしまっていたのですが、あれだけは、たしかに優れている絵だったような気がするのです。その後、さまざま画いてみても、その思い出の中の逸品には、遠く及ばず、自分はいつも、胸がからっぽになるような、だるい喪失感になやまされ続けて来たのでした。
 飲み残した一杯のアブサン。
 自分は、その永遠に償い難いような喪失感を、こっそりそう形容していました。絵の話が出ると、自分の眼前に、その飲み残した一杯のアブサンがちらついて来て、ああ、あの絵をこのひとに見せてやりたい、そうして、自分の画才を信じさせたい、という焦燥にもだえるのでした。
 
                      (太宰治『人間失格』)
 
 
 
自分自身を憂う葉蔵
 
抜粋文後半の、「このひと」というのは、シヅ子という女性の事。甲州生まれの28歳で、夫と死別して三年になる。5歳の娘と共に高円寺のアパートで暮らし、雑誌社に勤めている。
主人公の葉蔵はシズ子のアパートに転がり込み、初めて「男めかけ」のような生活をすることになるのだ。
アパートの窓の外から見えた奴凧が電線に絡まったり破られそうになったり、それでも必死にしがみついている様子を見て、自分自身と重ねてしまったのだろうか、ある日「お金が、ほしいな」と葉蔵がお金のなさ(そして不自由さ)を憂う場面がある。
そしてシヅ子にこう話す。
「自分でかせいで、そのお金で、お酒、いや、煙草を買いたい。絵だって僕は、堀木なんかより、ずっと上手なつもりなんだ」
 
この時、葉蔵の脳裡(のうり)には「中学時代に画いた竹一の所謂「お化け」の、数枚の自画像」が浮かび上がるのだが、それはもう引越しを繰り返している間に無くしてしまっている。もう、かつての自分の傑作は手元にはない。その後何度か描いてみても、それを超える作品には出会えなかった。その時の感情を「胸がからっぽになるような、だるい喪失感」「永遠に償い難いような喪失感」と表現し、それを「飲み残した一杯のアブサン」とも形容している。
 
 
 
「飲み残した一杯のアブサン」が表すもの
 
「飲み残した一杯のアブサン」これはつまりどういうことなのか。
 
まずは「アブサン」に注目してみる。
この『人間失格』が書かれたのは1948年。おそらく小説の舞台はそれよりも前。葉蔵が左翼活動をしていたり、飲み屋街の様子から察すると1920〜1930年代だろう。
スイス、フランスをはじめ、世界中でアブサンが禁止になったのが1910年頃〜であるから、アブサンが日本で飲めるなんていう事は滅多になかったであろう。日本初のアブサンはサントリーから作られたヘルメスだが、それが作られたのは1960年代に入ってから。日本はアブサン禁止にはなってはいなかったが、あの時代にアブサンを手に入れて飲むことは珍しいことであり、そういう意味でアブサンは幻のお酒だったのだ。飲みたいけれど、もう当時は無かった(飲めなかった)のだ。
 
そして、あえて「飲み残した一杯の」と書かれている。
何らかの理由があって、アブサンは残されたのだ。それは、酔っ払ってしまったからかもしれないし、口に合わなかったのかもしれない、時間が無くて飲みきれなかったのかもしれないし、あとで少しずつ飲もうととっておいたのかもしれない。
理由はどうあれ、グラスに入った状態の飲み残されたアブサンという物は、不完全な状態である。つまりそれは、不足している、そして何かに欠けているという状態でもある。
 
 
 
つまり「飲み残された一杯のアブサン」は葉蔵自身の事なのではないか、、、?
 
 
 
学生時代に竹一と出会い、葉蔵は彼から絵を描くことを教わり、「中学時代に画いた竹一の所謂「お化け」の、数枚の自画像」という傑作が生まれ、そして絵の才能をも認められた。
当時の葉蔵にとって、その出来事は初めて自分のアイデンティティを認める事、受け入れる事であり、彼の自信であり、自由そのものだったのだ。
 
そんな過去の才能ある自分と幻のアブサンをイコールで結んでいるのではないか。
 
すると、幻のアブサン(過去の自分の才能)を残してしまった(無駄にしてしまった)自分自身に対しての後悔のようなものが見えてくる。
 
本書の、
 その後、さまざま画いてみても、その思い出の中の逸品には、遠く及ばず、
この状況はまさしく飲みたいけれど、もう当時は無かった(飲めなかった)アブサンの状況そのもの
才能があったはずなのに中途半端に終わってしまった自分自身を、魅力的なお酒なのに、飲みかけであるという不完全な状態のアブサンに例えたのではないかと私は考える。
そして、それは同時に
「胸がからっぽになるような、だるい喪失感」「永遠に償い難いような喪失感」
 でもあるのだ。 
 
 
 
葉蔵から漂う腐臭
 
絵の話が出ると、自分の眼前に、その飲み残した一杯のアブサンがちらついて来て、ああ、あの絵をこのひとに見せてやりたい、そうして、自分の画才を信じさせたい、という焦燥にもだえるのでした。
 
ここで出てくる「飲み残した一杯のアブサン」は先ほどとは少し異なり、
それでもアブサンはまだ残っているというポジティブな印象を受ける。
葉蔵の才能は完全に消えて無くなったわけではないという事を彼自身がまだ信じているのだ。
画の才能を通じて、道化師ではない本当の自分を葉蔵はシヅ子に見てもらいたかったのだろうか。決して全ての人間には到底理解はしてもらえないだろうが、シヅ子にはそんな自分を見てもらいたい、そして信じてもらいたい。そして自分の事を見てくれたジズ子を信じたいと思っているのではないか。しかしアブサン(才能)はやはり飲みかけでしか無いのだ。焦燥にもだえる葉蔵。。。ツライ。
 
自分自身をありのまま受け入れてもらう事、人を心から信じること、それが葉蔵の想いである。そのツールが、自分が過去に描いた絵なのであり、それはありのままの葉蔵自身なのである。
 
 
しかしまぁ、、、自分自身を幻のアブサンに例えることによって、葉蔵のナルシストさがより際立つね。過去の栄光にすがりつき、今の自分との落下に耐えられない様子が見える、、、どうしようもなく歪んだ自尊心の塊。
飲み残されたアブサンは、葉蔵の才能の残りカスであり、葉蔵も結局最後には文字通りのカスになってしまったね。。
 
でも、幼少期の不自由な人間関係やトラウマ的経験をしていたら、自分を偽って道化師となってしまう心情もありえるよなぁ、、、。
アブサンだって、理不尽な事情で世界的に禁止の流れになってしまったし、現代は何かキケンなお酒とかパリピなお酒とか誤解されてる事がまだ多い。
 
葉蔵もアブサンも周りに振り回された被害者という意味では一緒だ。